スタッフの松浦です。
引き続きコロナ禍で大変ですが、せめてこのブログで息抜きしていただければ幸いです。
さて、今回のテーマは楽水園の敷地をぐるりと囲んでいる博多べいについて前後編に分けてお送りします。
まずはその前編「博多べいの歴史と意義」から。
当サイト冒頭でもご案内しているように、楽水園は明治時代の博多の豪商「下澤善右衛門親正・しもざわぜんえもんちかまさ」が、住吉に建てた別荘を前身とし、施設名「楽水園」も下澤善右衛門親正の雅号「楽水」にちなんでいます。
その号が示すとおり下澤善右衛門親正は別荘に日本庭園を作り池や滝で水を楽しみ、その一画に建てた茶室で茶道を嗜んでいました。
つまり彼は商人であると同時に文化人でもあったのです。
この「博多商人=文化人」という流れは、明治に限らずそれ以前の古い時代から脈々と続いた博多の伝統でした。特に、茶道が盛んであった安土桃山時代に活躍した三人の博多商人「島井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)・大賀宗九(おおがそうく)」はその代表です。
彼らは海外貿易で巨万の富を築くのみならず、その潤沢な資金力を活かし戦国大名に貸し付けを行うなど様々なビジネスを展開し、博多に空前の繁栄をもたらしました。
また、彼らは国際感覚を身に着けた商人であると同時に茶人でもあり、中でも島井宗室は足利義政が所有していた肩衝(かたつき)茶入「楢柴(ならしば)」を所持し、日本中にその名を轟かせていたのです。
茶の湯で用いる名物茶器を幾つ所有するかで戦国武将の力量が計られた時代、「楢柴」は、まさに垂涎の的だったのです。
天下人・織田信長や豊臣秀吉から「楢柴」を譲るよう執拗に迫られても頑として拒み続け、己の意思を貫いた島井宗室は博多商人のカッコいい生き様を今に伝えています。
そんな島井宗室の屋敷は、現在の博多区中呉服町5-8にありました。
現在ではポツンと石碑が一つ立っているのみですが、そこには昭和40年代まで島井宗室の屋敷を囲んでいた築地塀の一部が残されていたのです。
そう、それが「博多べい」です。
その繁栄とは裏腹に、博多は幾多の戦乱の舞台となって繰り返し焦土と化してきました。
「博多三傑」が活躍した安土桃山時代の1580年代だけでも、博多は三度の焼き討ちにあい、町の全戸数がわずか20戸にまで落ち込んだこともあったのです。
現在250万人にもおよぶ都市圏を有する博多・福岡市に、そんな時代があったなんて嘘みたいですよね。
そして、そんな博多の窮状を救うべく復興を行ったのが豊臣秀吉でした。
現在も「博多山笠」の七つの流れの元になっている「太閤町割り」がこのとき行われたことは地元ではあまりにも有名です。
そして、島井宗室の屋敷跡に残されていた塀は、その当時に作られた大変貴重なものだったのです。
往時、博多べいは、博多の各所に建てられ、中には八丁(約90m)も続くものもあって八丁塀と呼ばれるなど博多の町並みの大きな特徴となっていました。
島井宗室屋敷跡にかぎらず、博多べいは第二次世界大戦前まで町中のあちこちに残っていましたが、福岡大空襲で島井宗室屋敷跡のものを残してすべてが焼失してしまったのです。
博多べいには焼けた町から拾い集めた割れた瓦や焼け石がたくさん埋め込まれていました。まさに戦乱の時代の生き証人です。
また、石を埋め込むスタイルは主要な貿易相手の一つであった李氏朝鮮の影響も伺え貿易で栄えた博多ならではです。
島井宗室屋敷跡の博多べいはまさに最後の博多べいだったのです。
時は昭和40年代、高度経済成長期真っ只中の博多は、町中いたるところで再開発が進み、島井宗室の塀も取り壊しの危機に瀕していました。2000年の歴史を誇りながらも福岡大空襲の絨毯爆撃で古いものが無くなってしまった博多にとって、それは約400年にわたって街を見守り続けてきた大切な記憶でした。博多っ子が黙って見ているはずがありません。立ち上がった有志たちによって塀は中呉服町の屋敷跡から櫛田神社の境内に移築され、正式に「博多べい」と名付けられ末永く保存されることになったのです。
このような歴史的経緯と意義を踏まえた上で、楽水園は「博多べい」を復元し敷地を囲んでいます。
楽水園は1995年に開催された「夏季ユニバーシアード福岡大会」における文化交流施設として整備されたことが直接の運営の始まりでした。
いつの時代も海外と関わりながら発展してきた博多の町並みを代表する「博多べい」は、日本文化に「博多らしさ」を添えて、世界の人々に紹介する「楽水園」に大変ふさわしいものなのです。
最後になりましたが、個人的な思いを書かせていただきます。
博多べいを「廃材を利用して作った粗末な塀」と言う人もいるかもしれません。でも私はそうは思いません。
博多べいには、何度焼き討ちにあおうとくじけず立ち上がり、瓦礫を拾い集めてでも町を建て直した博多の人々の不屈の精神、勇気、知恵、団結力、町を愛する心、そんな有形無形の尊いものたちがギュギュッと詰まっているのです。
これを「博多の希望の象徴」と言わずしてなにを言いましょうか。
博多べいは、どんな困難にも何度でも立ち向かい町を不死鳥のごとく蘇らせた博多の先人たちの生き様の証なのです。
そして令和の現在、私達はコロナ禍真っ只中の困難な時代を生きています。そんな私達に「負けたらいかんばい!」と博多べいは力強い励ましのエールをおくってくれている、私にはそう思えてなりません。
現在「博多べい」は楽水園の他にも博多の街の様々な場所に復元され親しまれています。
国際貿易で栄えた商都・博多の歴史と文化、そしてその希望の象徴である「博多べい」は、これからも時を越え、博多そして福岡市を見守り続けていくことでしょう。
本文では櫛田神社の石碑に倣って「博多塀」ではなく「博多べい」と記述しました。
次の「後編」では博多べいの芸術的価値についてお伝えする予定です。
どうぞお楽しみに。