みなさんお元気ですか?スタッフの松浦です。
さて、まずは1枚の写真を御覧ください。
これは「宝篋印塔・ほうきょういんとう」と呼ばれる石塔です。
今回はこの石塔にまつわる昔ばなしから始めましょう。
むかしむかしインドに王様がいました。
その名は「アショカ王」(マウリヤ朝第3代/在位・紀元前268~前232)、はじめて全インドの統一をはたした偉大な王様です。
王様は仏教を手厚く保護し8万4千の塔を帝国全土に建て、釈迦の尊い教えをインド大陸のみならず、ヘレニズム時代のギリシアにまで伝えました。
このアショカ王の志は時を越えて後世に受け継がれてゆきます。
物語の舞台は10世紀なかば中国・五代十国時代。
遣唐使でお馴染みの唐はすでに滅び、中国大陸は多くの小さな国々に分かれていました。
その一つ「呉越(ごえつ)」という国に「銭弘俶(せんこうしゅく)」という王様がいました。
彼はアショカ王にならって8万4千の小塔をつくりました。
この塔はアショカ王の漢字表記である「阿育王」にちなんで「阿育塔」と呼ばれています。
またその多くは銅や鉄でつくられ鍍金(めっき)されていたので「金泥塔」などとも呼ばれ
その幾つかが海を超えて日本にも伝わり、鎌倉時代から江戸時代にかけてそれらにならった石の塔が日本各地にたくさん建てられました。
内部に『宝篋印陀羅尼経・ほうきょういんとうだらにきょう』というありがたいお経をおさめたという伝承にちなんで、この石塔は「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれています。
塔の形は独特で、本体の塔身の上部四隅に耳と呼ばれる突起がついているのが最大の特長です。
お経をおさめていたのですからこの塔は基本的には宗教造形物、お寺の境内や墓所などで目にすることがほとんどです。
つまり一般的な日本庭園ではあまりお目にかかりません。
ゆえに、宝篋印塔が庭にあるとちょっとカッコいいかもしれません。
実は、楽水園にもあるんです!
楽水園の受付横の玄関を開けると正面の窓のむこうにそれはあります。
今回は特別に反対側からの写真をご覧頂きましょう。
実は、この楽水園の宝篋印塔は珍しいことに朝鮮様式なんです。
全体のフォルムは鎌倉時代などに作られた日本のものと類似するかも…?
しかし石の表面に施された素朴な線刻は日本のものとは明らかに異なっていますし相輪の形も朝鮮風です。
この宝篋印塔が朝鮮で作られたのか?日本で作られたのか?古いのか新しいのかも不明です。
とにかく大変珍しいものであることには間違いないと思います。私個人は楽水園でしか見たことがありません。
さらに、この宝篋印塔は四角い「塔身」の部分がくり抜かれて灯籠に作り変えられているのです。
日本では明治時代の廃仏毀釈で多くの宝篋印塔が破壊されましたが、中には灯籠に作り変えることで難を逃れた例もあり、また李氏朝鮮でも激しい仏教弾圧があったので、その時に?と想像が膨らんだりします。
しかし、すべては謎のベールに包まれているのです。
とは言え、一つだけはっきりしていることがあります。
それは、この宝篋印塔を通して仏法による王道楽土の建設を夢見たアショカ王や銭弘俶王の夢が2300年の時を越えて現代の私達にも伝わってくることです。
それは今も歴史の地平線の彼方で輝きを放っています。
その輝きに会いに、あなたも楽水園にも来ませんか?
どうぞお待ちしています。