スタッフの松浦です。
今回は前回に引き続き「博多べい」を取り上げます。
今回は「博多べいの芸術的価値」についてです。
「博多べい」は、石の基壇の上に練土で壁を築き上げ一番上に屋根瓦をのせた塀です。
他の築地塀と別段変わりません。しかし、練土で築く壁の部分に廃材の瓦や石がたくさん埋め込まれており、この点が他とは大きく異なっているのです。これは前編でお伝えしたように戦乱の世で幾度も焦土と化した博多の町を復興させるため焼け跡から瓦や石を拾い集めて塀を作ったことが始まりで、元々は資材不足を補うための苦肉の策でした。しかし少しでも美しい塀にしようという人々の意思が、瓦や石を埋め込む過程で美の追求をもたらし、博多べいはモダンな抽象画のような芸術性を有する大変ユニークな築地塀となったのです。
壁に埋め込まれる廃材は「瓦」「石」の二種類です。
たった二種類ですが瓦には様々な形がありますし、石にもそれぞれ様々な形や色があります。
楽水園の博多べいで使われている瓦は「のし瓦」「丸瓦」「鬼瓦」「軒丸瓦」等およそ7種類以上におよび、楽水園の前身である下澤家のお屋敷で使われた屋根瓦も使用しています。
また、石は焼けた感じを出すために様々な色合いの由布院産の火山岩を使っています。それらをバランス良く築地塀の練土の中に埋め込んでいるのです。
一番多く埋め込まれているのは一文字に見える「のし瓦」です。これらは塀の構造を補強する現実的な役割を持つと同時に、絵画の背景としての役目も担っています。塀の表面に水平の連続性を作り出して、絵巻物にも似た横に連続する時間軸を生み出しているのです。一文字に見える「のし瓦」に加えてアクセントを付けるようにカーブした瓦も混ぜて埋め込まれ、さながら水面に立つ波のようです。全体が川や海のように見えてきます。しかし、これらの瓦は基本的に没個性で脇役、いよいよ主役級の石や装飾瓦の登場です。
石には一つ一つ色や質感の違いがありますし、鬼瓦や軒丸瓦の破片には異なる彫刻があり、これらが生き生きとしたストーリー性を持った世界を作り出しているのです。
このコンセプトは、規制の材料を用いるコラージュのようなモダンアートに通じています。博多べいは、素材が持つ質感や自然な形を活かして制作される抽象画なのです。私は博多べいを通してパウル・クレーやカンディンスキー、そしてバウハウスの抽象的な芸術を思い出します。
また、壁の上部で横に連結している波模様の「水切り瓦」は、壁を水から守るという合理的な役割を担うだけでなく、博多べい全体を横に繋いで秩序ある規則性をもたらしています。これもまた波型なので全体を海の物語のように見せることに一役買っています。
もともと博多は、海を超えた国々との貿易で栄えた町です。博多べいが海を表現しているのは自然なことです。そこには壮大な浪漫に満ちた交易の物語が見え隠れしています。
また、日本建築は火事に合わないように水にちなんだものをあしらうのが習慣で、博多べいの一番上の軒丸瓦に見られる巴紋も水が渦を巻いている様子を表現していると言われています。壁全体が海=水を表せば「火事よけ」のご利益はますます上がるというものです。
21世紀に暮らす私達は、以前にもまして自然を強く求めるようになりました。現代芸術においてもナチュラルな美しさや自然素材が重視されています。自然の材料を用いて素朴な美をたたえながらも、斬新でモダンな抽象画のような「博多べい」は、まさに21世紀の時代にふさわしい芸術です。下手に具象に走らず、素材の色・質感・形だけの組み合わせで表現する抽象的な芸術スタイルは現代美術のセオリーと見事にマッチし、普遍の芸術性を有しています。
加えて「廃材利用=リサイクル」は最先端でさえあります。
限られた資源を有効利用することはまさに現代の大きな課題です。
また、廃材には古材ならではの深い味わいがあります。上の写真は楽水園西側の博多べいに埋め込まれている「三つ藤巴」の軒丸瓦ですが、藤の花が儚いほど繊細で美しいですよね。この瓦はどんな家の屋根を飾っていたのだろう、と想像を巡らさずにはいられません。長い年月にわたり風雨にさらされたことによる風化や変色、または欠けさえもが味わいとなって私達に豊かに語りかけてきます。博多べいに使われている廃材はアンティークとしてとらえることもできるのです。
でも、最後に正直に言ってしまいますが、実は廃材を利用して作った築地塀は博多べいの他にも色々あります。織田信長が考案した「信長塀」は有名です。
そもそも「廃材利用=ものを大切にする」という考えは、禅の教えに通じ、京都の禅寺などでは割れた瓦を埋め込んだ塀をしばしば見かけます。
下の写真は京都・天龍寺の塔頭・「慈済院」の築地塀です。
この塀も、廃材を利用するコンセプトは博多べいと同じです。
ただし、表現しようとしているものが違います。この塀は雅な京都らしく上品に素材を埋め込んで図案的な美しさを追求しています。
京都の寺院で見られる塀のなかで博多べいに似たものを選んでお見せしましたが、これ以外の廃材を使った築地塀はさらに規律性を重んじたストイックな印象のものが殆どです。そもそも禅寺は厳しい修行の場、禁欲的で真面目になってしまうのは当然の事と言えます。
それに対して、博多べいは豊かで楽しいストーリー性、そしてダイナミックに心に訴えかけてくるようです。おおらかで力強く生きる喜びに溢れています。しかも庶民的でユーモラス、見ていると明るく楽しくなるのです。まさに川上音二郎やタモリを生んだ芸どころ・博多ならではと言えます。
それでいてバウハウスやパウル・クレーに通じるようなモダンな芸術性をも宿しているから素晴らしいのです。
博多べいは、大勢の人が公共の空間で共有する芸術・パブリックアート=街角アートです。芸術性の高さの追求もさることながら、パブリックアートには明るく元気でハッピーが一番!と私は思います。
最後になりましたが、楽水園の「博多べい」は復元されたもののなかでは、最も規模が大きく見応えがあります。敷地の南側では40m近くも一直線に続いており圧巻です。
往時は90mも続く博多べいが博多の辻辻に立ち並び「八丁べい」と呼ばれたこともあったとか。
楽水園の博多べいで昔の博多の風景を思い描いてみませんか。
コロナに気を付けつつ皆さん是非見に来てください!お待ちしています!
追伸、博多べいの抽象的な芸術性は現代の博多にも受け継がれています。
それは足元の街角アート、マンホールの蓋です。
全国には様々なマンホールがありますが、その多くはご当地の観光地などをあしらったものが多いですよね。対象的に福岡市のマンホールは、ご当地を完全に無視して抽象的な芸術性に徹しているのです。それは一見全く博多と関係ないように見ますが、博多べいに通じる実に博多らしいセンスだなぁ、と私はいつも思いながら通勤しています。
楽水園をお訪ねの際は、往路復路の足元のマンホールにもどうぞ注目してください。
マンホールの蓋は、博多べいと共に福岡市民のお気に入りとして未来に受け継がれてゆきます。