楽水園

友情の証

スタッフの松浦です。
皆さんご機嫌いかがですか?
今回も日本庭園について書かせていただきますので、よろしくお付き合い下さい。

さて、日本庭園には景色に趣を添える「添景物(てんけいぶつ)」が色々ありますが、なかでも石灯籠は名前が覚えられないほど多くの種類があります。また、たとえ同じ種類でも職人さんによる手作り故に一つとして同じものはありません。
私はお気に入りに出会う度に胸が高鳴ります。もちろん私の職場「楽水園」にもお気に入りがありますので、今回はその一つをご紹介しようと思います。

それは「孤篷庵型灯籠・こほうあんがたとうろう」です。

小型の灯篭で高さは1m20cmほど。
小さな女の子が丸い大きな帽子を被ってちょこんと立っているように見えるのは私だけでしょうか?
愛らしいですよね。
この灯籠の「本歌・ほんか(オリジナル)」は、京都大徳寺・塔頭「孤篷庵・こほうあん」の茶室「忘筌・ぼうせん」の露地にあります。
楽水園のものはその「写し(コピー)」です。でも、たとえ写しであろうとこれは滅多に見ることが出来ないちょっと珍しい灯籠なのです。
(「本歌」「写し」はこれから頻繁に登場する言葉です。この機会に是非覚えて下さい)

三度の食事より日本庭園が好きな私は、京都や九州山口の庭を中心に多くの庭を巡っていますが、いまのところこの灯籠を楽水園以外で見たことがありません。
この灯籠の本歌がある「孤篷庵」は小堀遠州(1579‐1647)の菩提寺で、彼がおこした遠州流茶道とも深い関わりがあり、また孤篷庵は通常非公開で一般にはあまり知られていないお寺なので、この灯籠が他の庭であまり見られないのはそのせいかもしれません。
たとえ孤篷庵の認知度が低くても小堀遠州は大変有名ですよね。千利休・古田織部と並ぶ三番目の茶聖として讃えられ、その才能は茶室などの建築、庭園、七宝、テキスタイルなど様々な分野に大きな足跡を残し、現在でもその影響は続いています。
小堀遠州が作った京都・二条城「二の丸庭園」の石組みは、さながら交響曲のように音楽的です。
そうそう、利休好みの黒い城を白くしたことでも有名ですよね。小堀遠州がいなければ白亜の姫路城は黒かったかも?古い日本家屋の欄間に小堀遠州が考案した七宝模様が透かし彫りされていたりすると私は目尻が下がります。
そして、この「孤篷庵型灯籠」も彼の作品なのです。

「孤篷庵型灯籠」は、異なる種類の石灯籠からパーツを寄せ集めて作る「寄せ灯籠」という種類に分類されるユニークな灯籠です。
とは言うものの通常の寄せ灯籠は、石灯籠からパーツを集めるのですが、この孤篷庵型灯籠は五輪塔・宝篋印塔・宝塔などの宗教石造物だけからパーツを集めており他に類を見ません。丸い笠の部分は、五輪塔の水輪と呼ばれる球体部分を、真っ二つに切って、しかも逆さにかぶせるという大胆なことさえしています。また寄せ灯籠は数々あれど名前がついて世の中に広まり定着することは滅多にないのですが、「孤篷庵型灯籠」は定着した大変珍しい例なのです。この灯籠は他の誰かが作ったものを借りてきて再構成したにも関わらず独創性に溢れるというそんな矛盾など我関せずと軽々と飛び越えているのです。しかも厳しい宗教造形物のパーツから作られているのに孤篷庵型灯籠は可愛いらしいのです。どうしてそんな事ができてしまうのか凡人の私には想像すらできません。さすが日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと称された小堀遠州ならでは、としか言いようがありません。

では、何故この「孤篷庵型灯籠」が、京都から遠く離れた福岡の楽水園にあるのでしょうか?
孤篷庵は大徳寺の塔頭寺院の一つですが、そもそも大徳寺は、加賀・前田家や肥後・細川家など大大名だけが菩提寺として塔頭を開くことが許された名刹(めいさつ)です。現在でも京都の他の寺々とは一線を画す特別な品格を漂わせています。つまり、大徳寺はお高いのです。そんな大徳寺にわずか二万石の少大名であった小堀遠州が「塔頭=菩提寺」を持つなど叶わぬ夢だったのです。
しかしその夢を力強く後押しする人物があらわれます。それは我らが福岡藩・黒田長政でした。

黒田長政は父・如水の菩提を弔うため大徳寺に「龍光院(りょうこういん)」という塔頭を持っていました。その境内に小堀遠州が「孤篷庵」を建立できるよう後押ししたのです。
それから30年後、孤篷庵は龍光院から独立し現在地に移転、大徳寺塔頭に正式に名を連ねることが出来たのでした。惜しいことに孤篷庵はその後火事で焼けてしまいますが、小堀遠州を敬愛した松江藩主・松平不昧公(私も個人的に不昧公をとても尊敬しています)によって再建され現在に至るため「孤篷庵=不昧公」で語られる事が多いのですが、黒田長政の貢献がなければ孤篷庵は存在していなかったかもしれないのです。

この黒田長政の後押しには理由がありました。
生前父・如水は小堀遠州と大変親しかったのです。でも、いくら仲が良かったとは言え、他人である小堀遠州の菩提寺を、父・如水の菩提寺内に建立させるなど普通ではありえません。それは自分の家の墓の敷地に他人の墓地を置くことに等しいのですから。にも関わらずそれを許したという事は黒田如水と小堀遠州のあいだによほどの固い絆があり、それを息子・長政も認めていたのでしょう。
このことを思うとき、京都の孤篷庵以外では滅多に見ることのない孤篷庵型灯籠が、黒田藩のお膝元・福岡の楽水園に置かれていることに私は深い感慨を覚えます。楽水園の孤篷庵型灯籠がいつ頃から置かれているのか分からないのですが、これをここに置いた人は黒田如水と小堀遠州の絆を知っていたに違いないのです。
つまり楽水園の孤篷庵型灯籠は「永遠の友情の記念碑」なのです。

この灯籠は楽水園の受付前にあります。
午後以降は受付にいることが多い私は、いつもこの灯籠を見ながら仕事をしていますが、常に二人の友情を胸の片隅におき、微力ながら少しでも彼らに恥ずかしくない仕事をしたいと志を立てています。

このように日本庭園に置かれているものには、人の思いが込められていることがとても多いのです。それは遠い昔の誰かがしたためた私達への手紙のようなものです。知識や教養はこういうものを読み解くためにこそ身につけるのだと私は信じて疑いません。皆さんが住んでおられる地域の日本庭園にもきっと手紙が隠されているはずです、どうか探してお読みになってください。
それは会ったこともない先人たちと時を越えて絆で結ばれること、それは喜びに満ちた感動をあなたの胸にもたらしてくれるはずです。

追伸:
ところで、楽水園の孤篷庵型灯籠は本歌そのままの写しではありません。
実は大変興味深いアレンジが幾つか加えられていて、これがまた本当に面白いんです。
それについてはまたいつか。

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